2026-07-14

あなたは、飢えを知っているだろうか

あなたは、一日たりとも何も食べなかった日はあるだろうか。一年前の秋のある日、私は丸二日間、何も食べずに過ごした。記憶する限り、人生において、そのような出来事は一度もなかった。私は人生で初めて、飢えという感覚に向き合ったのだ。

私にとって、食べ物があることは当たり前だった。朝起きれば朝食があり、昼になれば昼食があり、夜になれば夕食がある。15時にはおやつも食べるし、陽が沈めばお酒を開封する。だから私にとって「飢え」というのは、遠い国で起きている戦争のように、概念上のものでしかなかった。

しかし考えてみれば、地球上で、飢えを経験せずに一生を終える動物は、ほとんど存在しないのではないだろうか。人類でさえ、700万年の歴史のなかで、そのほとんどは「カロリー獲得のための戦い」を行っており、飢えの恐怖とは常に隣り合わせだったのではないかと思う。なにも口にしなかった日の夜、私は不安でほとんど眠ることができなかった。たった一日でそうなのだから、飢えと隣り合わせの恐怖は、凄まじいものだったに違いない。

飢えを知ったことで、私の中で何かが変わった。振り返ってみると、それは私だけではなかったようだ。人類は古くから、あえて「食べない時間」を大切にしてきたのである。

 

あえて飢えを迎え入れた人類

世界中の文明が、互いに相談することなく、同じ習慣を受け継いでいたとしたら、それは偶然なのだろうか。文化も言葉も違う人々は、なぜか「あえて食べない時間」を神聖なものとして受け継いできた。

キリスト教では復活祭の前に断食を行う四旬節(レント)があり、イスラム教にはラマダーンがある。仏教でも修行の一環として食を慎む文化があり、ヒンドゥー教やジャイナ教にも断食は古くから受け継がれてきた。

もちろん、それぞれの宗教で意味は異なる。神への祈りであったり、懺悔であったり、修行であったりする。しかし、世界中でこれほど共通して「食べない」という行為が聖なる儀式として残っているのは、偶然ではないように思える。

現代の私たちは、「満たされること」が良いことだと考えている。お腹が空けば食べる。喉が渇けば飲む。静寂が訪れれば音を流す。それが豊かさなのだと思っている。

しかし、過去の人々は、あえて満たさない日をつくることで、偏った感覚を本来の姿へ戻していたのではないだろうか。東洋医学で鍼や灸が身体の力みに気づかせるように、断食もまた、満たされることが当たり前になった感覚を、本来の姿へ戻す知恵だったのかもしれない。

 

二日ぶりの野菜スープ

断食を終えた朝、最初に口へ入れたのは、一杯のスープだった。レストランの高級料理でもなければ、牛肉を煮込んだ手の込んだコンソメ・スープでもない。ただの素朴な野菜スープだった。

それなのに、身体中へ染み渡るような温かさを感じた。続いて食べた塩むすびも、信じられないほど美味しかった。普段なら何気なく口へ運んでいる食事が、こんなにも有難いものだったのかと、初めて気づいた。

その日からしばらく、私は「食べられること」への感謝の念が尽きなかった。しかし、その感覚も時間とともに少しずつ薄れていく。だから今でも、月に一度を目安に、丸一日「何も口にしない日」を設けている。

満たされることは、もちろん素晴らしい。しかし、人は満たされ続けると、その豊かさに気づけなくなるのかもしれない。だから昔の人々は、ときどき空腹を迎え入れたのだろう。食べられることに、もう一度感謝するために。