「〜しなければならない」という口癖
あなたは今日、「しなければならない」という言葉を何度使っただろうか。
村づくりに携わり、ちいさな子どもと関わるようになって感じたことがある。小学校に通うようになった頃から、彼らは次第に当為表現を使うようになるのだ。つまり、「学校に行かなければいけない」とか「宿題をしなければならない」と口にするのだ。そして彼らが九年間、あるいは十二年間の義務教育を終える頃には、この「やらなければいけない」という感覚が、ごく自然な価値観として根付いているように、私には感じられる。
当為の感覚が強いと、人生が「しなければならない」の連続になる。「働かなければならない」「税金を納めなければならない」「ペットのカメに餌をやらなければ」と。気づけば、人生は「したいこと」ではなく、「しなければならないこと」で埋め尽くされていく。
そうした言葉を耳にするたびに、私は強い違和感を感じる。その「しなければならない」は、本当にご自身の心の声なのだろうか。それとも、誰かから受け取った言葉を、自分の声だと思い込んでいるだけなのだろうか。
「やらなければいけないこと」の正体
「しなければならない」という言葉には、大きく二種類あるように思う。
ひとつは、「したいこと」が隠れている場合だ。たとえば、「働かなければならない」という言葉の先には、給料を得たいという願いがある。「税金を納めなければならない」の先には、安全な社会で暮らしたいという願いがある。目的を忘れて、義務だけが残ると苦しくなる。しかし、その先にある願いへ目を向けることができれば、「したいこと」へと言葉を置き換えることができるのではないだろうか。
もうひとつは、本当に思い込みでしかない場合だ。「みんながそうしているから」「学校でそう習ったから」「しきたりだから」。理由を尋ねられても答えられない義務感は、案外少なくはない。世間はそれを常識だといい、私はそれを錯覚だと呼ぶ。
だから私は、「しなければならない」と思ったとき、一度立ち止まることにしている。それは本当に、やらなければならないことなのだろうか。あるいは、自分が「やりたいこと」を、いつの間にか義務だと錯覚しているだけなのだろうか。
あなたが選んだ物語
もちろん、私は法律を破ることや、約束を軽んじることを勧めたいわけではない。ただ、「しなければならない」という言葉だけは、一度疑ってみてもいいのではないだろうか。
働かない自由もある。税金を払わない自由もある。約束を破る自由もある。もちろん、その選択には、それぞれの結果が伴う。だから私たちは、その結果を含めて考えたうえで、自分にとって最善だと思う道を選んでいるのだ。
つまり、人生は義務ではなく、自由な選択によって動いている。私は、そう考えるようになってから、自分の行動すべてを「自分で選んでいる」と思えるようになった。
「働かなければならない」ではなく、「理想の暮らしのために働きたい」。「納めなければならない」ではなく、「安心して暮らしたいから納めたい」。同じ行動でも、言葉が変わるだけで、人生の景色は驚くほど明るくなるのではないだろうか。
人生は、「しなければならない」の積み重ねではない。すべてを自分で選び続ける物語なのだから。
読者の声
あなたが最初のひとりです。