2026-07-16

上機嫌は大人のエチケット

誰にでも機嫌が悪くなる日はある。インドでタクシーに乗り、謎の土産物屋に連れていかれ、象の仏像を買うまで帰さないと言われたときには、「穏やかさが服を着て歩いている」と言われる私でも、手持ちのカフェアメリカーノを頭からかけてやろうかと真剣に悩んだ。もしあれで腹を立てない人間がいるとすれば、その体内に流れているのは、血ではなくトマトジュースに違いない。

しかし大人である以上、不機嫌を周りに撒き散らすようではならない。機嫌は守るべきマナーであり、どうしても優れないのであれば、社交の場に顔を出すことは控えるべきなのだ。感染症が周りに伝染するように、不機嫌も周囲へ伝播し、人の機嫌まで乱してしまうからだ。

機嫌を損ねると、人は視野が狭くなる。自分の苦しさで頭がいっぱいになり、出来事を客観視できなくなる。「でも」「だって」「けれども」の三連が口癖となり、出来事の因果を、自分自身へ向けることもない。「全部あいつのせいだ」「彼が私を不機嫌にさせている」「私を怒らせないで」といった具合に。

もちろんこれは、私自身への自戒の念を込めた主張でもある。常にご機嫌であることを心がけているが、それでも悪い出来事が重なると、時にどうしようもなく不機嫌になることがある。致命的に他責になり、他人の助言に耳を傾けず、発情期のイノシシのように周りが見えなくなる。

病気のときは、無理をして働かず、身体を休める。不機嫌も、それと似ているのかもしれない。その状態では、世界を正しく見ることさえ難しくなる。一度距離を置き、心が静かになるのを待つ。世界は変わらなくても、見えている世界は、大きく変わることがあるのだから。

 

世界は、一瞬で反転することがある

出来事は中立であり、相手には相手の事情がある。どれだけ憎いと思っていた相手でも、背景を知れば、見える世界が一変することもある。

ある朝、通勤中のバスのなかで、落ち着きがなく騒ぎ立てる二名の小学生がいた。隣にはその父親らしい人物がいたが、彼が注意する様子はなかった。ただぼうっと子どもを眺めていた。数分がたち、我慢ができなくなった中年の女性が、その父親に問い詰めた。「なぜ注意しないのか。周りの乗客に対して迷惑だし、非常識ではないか」、と。その通りに思えた。

しかし、指摘を受けた父親は、急に正気を取り戻したような表情になり、慌てて謝罪した。「申し訳ございません。気が動転しておりました。今朝、私の妻が急に亡くなりました。息子たちも母親を失って、困惑しているようなのです。」事情を聞いた乗客は、途端に怒りを鎮め、子どもたちに同情の念を向けた。子どもたちは何ひとつ変わっていない。それなのに、乗客の見えている世界だけが一瞬で変わったのだ。

私はインド人に腹を立てるべきではなかったのかもしれない。あの憎たらしいタクシー・ドライバーにも、病床に伏せている娘がいたのかもしれない。マンモハン政権下の重税に苦しんでいたのかもしれない。あるいは友人に騙され、もう何日も食事ができていなかったのかもしれない。そんなドライバーを選んだ私側にも原因はあるのだ。

考えようによっては、長距離のドライブができたし、頃合いの象の土産も手に入った。天気もよかったし、昼に飲んだビールは美味しかった。それほど腹を立てるほどのことではなかったのかもしれない。インドが変わらないというなら、私が解釈を変えればいい。

不機嫌は風邪みたいなもの

怒りや不機嫌は、一時的な精神の風邪なのかもしれない。誰にでもあるし、多くは時間が経てば治っていく。一週間も不機嫌で居続けることは、上機嫌で居続けることよりも難しい。過ぎ去ってしまえば、「なぜあんなに腹を立てていたのだろう」と思うことも少なくない。

だから私は、不機嫌な人を見ると、「今日は風邪なんだね」と思うようにしている。「天気が悪い日もあるよね」とか「人間らしくて、かわいいじゃないか」といったように。

不機嫌は、彼・彼女側の問題であって、私の機嫌には関係がない。私はご機嫌でいたいので、決して言い争わずに、ビールでも飲みながら嵐が過ぎるのを待つだけだ。

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