あなたのことは案外誰も気にしていない
あなたは、他人からどう思われるかを気にして、何かを諦めたことはないだろうか。
私には、ひとりの破天荒な友人がいる。彼は大学を中退すると、ひとりで海外へ渡り、お店を始めるような人物だった。久しぶりに会うと、相変わらず落ち着きのない人生を送っていた。香港で大金を稼ぎ、アメリカへ渡ってホテルを経営し、コロナで破産した。それでも懲りずに、また大きなことを始めようとしていた。二回結婚して、二回離婚していたが、それは大した出来事ではないように思えた。
程度の差こそあれ、あなたの周りにも『決断と失敗をした友人』はいるのではないだろうか。役者を目指してキャリアを捨てた人。投資に騙され負債を抱えた人。結婚してすぐに離婚した人。あなたは彼らを軽蔑するだろうか。失敗した人間だと決めつけ、付き合いを辞めるだろうか。おそらくそんなことはない。彼らが彼らである限り、それほど印象は変わらないのではないだろうか。
離婚した友人も、事業に失敗した友人も、大学を辞めた友人も。次に会えば「最近どう?」と話をし、「このワイン美味しいね」と笑い合っている。私たちは、他人の人生にそれほど長く関心を抱き続けることはできない。だから当人にとっては人生を変えるほどの出来事でも、他人にとっては日常のワンシーンなのである。
「私のことを気にしている」という錯覚
私たちは、他人に対しては案外無関心だ。同僚が不倫をしようとも、親戚が小型のワニを飼い始めようとも、その人の人生として受け容れることができる。「まぁ大変かもしれないけれど、その人が決めたことなら」と、尊重することができる。しかし自分のこととなると、途端に「周りから注目されているような錯覚」を起こす。
「離婚したいけれど、周りから後ろ指を指されないだろうか」
「会社を辞めたいけれど、同僚や先輩は冷たい目を向けてこないだろうか」
「芸人の道を目指したいけれど、両親は悲しまないだろうか」
まだ起きていない『他人からの評価』を気にして、動けなくなることがある。あるいは、実際に心配されたり、反対されたり、非難されたときでさえ、その言葉を必要以上に重く受け止めてしまう。
「そんなことをしたら後悔するよ」
「やめておいた方がいい」
「そんなの無計画だ」
そうした言葉を、まるで裁判所から言い渡された判決のように、「社会から下された評価」として受け止めてしまう。しかし、その言葉は、本当にそれほど重いものなのだろうか。時間が経てば、その人の関心は暮らしへと戻っていく。
仕事をして、ご飯を食べ、休日を過ごすなかで、他人のことばかりを考えているわけではない。私たちが友人の人生を引きずらないように、友人もまた、私たちの人生を気にかけ続けない。
かけられた言葉は、その人固有の意見に過ぎない。
これは、あなたの物語
もちろん、友人や家族の言葉は有難いものだ。経験を踏まえた助言は、自分では気づけない危険や思い込みを教えてくれることがある。だから、その声に耳を塞ぐ必要はない。
しかしあなたが、他人の人生の責任を負うことができないのと同様に、他人もまた、あなたの決断に責任を負ってはくれない。どれだけ親身に助言をしたとしても、最終的な結果を引き受けるのは、あなただけだ。
他人はそれほどあなたのことを気にしていない。だから、大きな決断をするときには、心の内に耳を傾けて、自分が食べたいものを頼もう。友人はお勧めのメニューを教えてくれることはあっても、オーダーしたものを食べるのはあなたなのだから。
読者の声
あなたが最初のひとりです。