座りすぎは、第二の喫煙
あなたは、一日にどのくらい椅子に座っているだろうか。その時間を、数えたことはあるだろうか。お仕事によっては、座る暇なんてないかもしれない。あるいは逆に、一日のほとんどを椅子の上で過ごしているかもしれない。かくいう私も、一時期は、常に自宅のパソコンと睨めっこをしており、「椅子にいなければ寝室。寝室にいなければ椅子。」という二拠点生活をしていた。
今にして思えば、よくそんなにも長いこと座っていられたな、と思う。しかし当時は、仕事に熱中するあまり、時間を気にすることはあっても、身体を気にかけることはなかった。気がつけば何時間も同じ姿勢のまま、立ち上がることさえ忘れていたのだ。
そんな暮らしを変えたのは、ひとつの記事だった。そこには『座ることは第二の喫煙』という見出しと、腰痛やら肥満やら糖尿病やら、さまざまな症状に苦しむさまざまな人の写真が添えられていた。その記事は、まっすぐ私を指差してこう警告をしてきた。これは、お前のことなんだぞ、と。そして、「近い将来、この中から一枚引くことになるだろう」と。
その日から、私はその予言を回避するための戦略を立てることにした。お気に入りの仕事は、このまま続けたい。だったら、座り方を変えられないだろうか。そうして私は、ふたつの戦略を立てた。
予言を回避するふたつの戦略
ひとつめの戦略は、あえて椅子の品質を落とすというものだった。それまで私は、長時間座っていられるように、人体工学に基づいたゲーミング・チェアを採用していた。それは、まるでサナギを包む繭のような椅子だった。説明書には、「座り過ぎに注意してください」と書いてあったが、仕事に熱中する私は聞く耳をもたない。そこで不本意ながら、素朴なスツールにダウン・グレードすることにした。正座をすれば足が痺れるように、スツールに一時間も座ればお尻が痛くなるため、立ち上がりたくなるのだ。
私に必要だったのは、『座り続けられる椅子』ではなく、『立ち上がる動機』だった。用法用量を間違えた薬が、毒に変わるように、たとえ優れた椅子であっても、使い方を守れないなら、それは使うべきではないのだろう。スツールに変えたことで、長時間連続運転はできなくなった。しかし適度に立ち上がり、肩や胸や腰をほぐすようになった私は、以前より深い集中状態に入れるようになった。不便になったはずなのに、仕事はむしろ捗るようになり、身体もはるかに楽になった。
ふたつめの戦略は、立って仕事ができるように、昇降式の机へ変えたことだった。一時間座ったなら、次の一時間は立って仕事をする。座っているだけのときには気づけなかったが、「立って静止する」という姿勢を維持することは、ある種の運動であり、思いの外、全身の筋肉を使うのだ。慣れないうちは、一時間が過ぎたあとに疲労感があった。あの雑誌の予言のとおり、戦略を立てなければ、私は今頃、偏頭痛持ちの腰の曲がった肥満になっていただろう。
過剰な快適さは、機能を奪う
私たちの身の回りには、快適さを追い求めた道具があふれている。低反発の寝具やマットレス。加湿器や除湿機、空気清浄機。それらの恩恵は計り知れないだろう。しかし、その目的を超えて、過剰なまでに機能を求めていないだろうか。身体が環境へ適応する機会を減らしてはいないだろうか。
過去の私がそうだった。何もかも最先端の道具をそろえ、常にオンラインに接続し、私の帰宅時間に合わせて、チェックインするみたいに部屋を整えていた。しかし、快適さに反比例するように、環境への耐性は弱くなっていた。少し暑いだけで疲れる。寒い日には帰りたくなる。花粉の季節は出られない。温室育ちのプードルのように脆弱になっていたのだ。
過剰な快適さは、機能まで奪ってしまう。身体の声に耳を傾けると、不便さは敵ではなく、味方になり得るのかもしれない。
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