2026-08-07

呼吸が上手い人、呼吸が下手な人

あなたは、『呼吸のやり方』について、誰からか教わったことはあるだろうか。あるいは、ご自身の息の継ぎ方について、指摘や指導を受けたことはあるだろうか。ここでいう呼吸とは、『ムリギームドラー呼吸法』や『ヨギーの火の呼吸』といった特殊なものではない。今この瞬間にも行っている普通の息の話だ。心臓が鼓動したり、食べ物を消化したりするように、身体が勝手にやってくれているのだから、習うも何もないだろうと思われるかもしれない。しかし呼吸は少し違う。無意識に行われながら、意識によって変えることのできる運動でもある。

泳ぎ方や歌い方は、誰かから習う。歩いたり走ったりも、成長するなかで指摘されることがある。。たとえば、もし私が部族長のゴリラみたいな歩き方をしていれば、親切な誰かがそっと指摘をしてくれるだろう。それはまずいですよ、と。私は自分の歩き方の癖に気づくことができ、改善できるかもしれない。しかし呼吸については、よほどの欠陥が見られない限り、ほとんど誰からも何も言われない。

生まれたときから繰り返している呼吸に、もしも上手い・下手があるとすれば、あなたはご自身の呼吸に自信を持てるだろうか。『泳ぐ』という行為をとっても、回遊魚のようにスマートに泳ぐ人もいれば、本人は泳いでいるつもりでも、『救助が求められる状態』と表現したほうがよい事例もある。もし呼吸にも癖があるのなら、それに気づき、少しずつ直していくことで、身体の使い方まで変わっていくのではないだろうか。

 

肺は、自分では動かない

息をする仕組みについて、私はかつて、『肺』が膨らんだり縮んだりしているのだと思っていた。しかし肺は自分では動かない。代わりに横隔膜をはじめとする呼吸の筋肉が動くことで、胸の中の圧力が変化して、空気が出入りするようだ。つまり呼吸は、無意識下で行われる生理現象でありながら、筋肉を使った身体運動という側面もある。ちなみに焼肉のハラミは、横隔膜の一部である。ホルモンに分類されながら、あれだけ肉らしい食感があることからも、それが筋肉であることを実感できるだろう。

息をすることは、生きるために欠かせない運動であり、あらゆる身体の営みと常に連動している。勢いよく走れば、息が切れる。重いものを持てば、息が詰まる。潜入捜査をするときには、息を潜める。美しいものを見たときには、息を呑む。緊張すると息が浅くなり、眠りにつくと息が整う。そして、息の根が止まれば、それは命の終わりを意味する。

だからなのか、身体を扱う世界では、呼吸がとても大切にされる。武道においても、歌唱においても、まず息の使い方を教わる。たとえば弓道においては、『息合い』という考え方が根幹にあり、弓を構え、引き分け、矢を放つ一連の動作を呼吸と調和させる。舞踏の世界でも、『息を合わせる』ことが大切にされるように、身体をうまく動かすことと、息をうまく使うことは、まさに『阿吽の呼吸』のように、切り離せない関係にあるのだろう。

 

暮らしのなかに『息合い』を

私は、牛ハラミがそれほど重要な筋肉だったのかを知ってから、自らも身体を動かすときに、息の流れを意識するようになった。目を覚ますと、自分がどんな息をしているのか、その流れを感じてみる。歩くときには、歩調と息を合わせる。問題に直面したときには、息が乱れていないか確かめる。特別な呼吸法ではない。ただ、身体と呼吸が、別々に離れてしまわないように観察するようになったのだ。

呼吸は、身体の状態を知らせる便りのようでもある。焦りや不安を感じると、速く浅くなる。逆に、安心しているときには、ゆっくり穏やかになる。そして息は、一方的に知らせてくれるだけではない。息を変えることで逆説的に、身体にも働きかけることができる。ギアを落としたいなら、まず息をゆっくり吐いてみる。身体を変えようとするよりも、呼吸から変えるほうが簡単なこともある。

私たちは、一日に約二万回も息をする。歯を磨いているときも、本を読んでいるときも、運転中だって、稽古の機会はいつもある。呼吸という言葉は、『呼いて吸う』と書く。海岸へ絶え間なく波が打ち寄せる姿を想像しながら、ゆったりと吐いて、そして吸う。そうした動きに、ときおり意識を向けてみる。それだけでも、昨日までとは少し違った身体の使い方が見えてくるのではないだろうか。