2026-08-08

カーストに隠された物語

あなたは、『カースト』と聞いて、何を想像されるだろうか。一般には、インドにおける身分制度として知られているのではないだろうか。その原型のひとつである『ヴァルナ』は、日本ではしばしば、下から順に、シュードラ(奴隷)、ヴァイシャ(商人)、クシャトリア(役人)、そしてバラモン(聖人)といった具合に説明される。江戸時代の『士農工商』に似ているが、もっと身分差別的な要素が含まれており、最近では、学生たちが、人気を階層に分けて、スクール・カーストと表現したりもするそうだ。

私は昔から、カーストに疑問を感じていた。記されているのは、インド最古の聖典リグ・ヴェーダ。紀元前から語り継がれてきた『祈りの歌』だ。自然や神々へ捧げられた、敬意と畏敬に満ちた讃歌のなかに、なぜ突然、人間を四つの身分に分ける話が現れるのだろう。ロマンス映画だと思って見ていたのに、突如、人喰いワニが登場するような、不自然な流れに思えた。実際にヴァルナが登場する『原人の歌』を読んでみると、もっと象徴的で神話的な物語が描かれている。

もしもカーストが、身分制度ではなく、もっと別の何かを象徴していたとするなら、あなたはどう考えるだろうか。数千年前から、未来に向けて残されたメッセージが含まれているとすれば、それをどう受け取るだろうか。神話がそうであるように、真に重要な教えは、象徴のなかにそっと置かれているものなのだから。

 

身分ではなく『成熟度』

これはひとつの仮説だ。私はこの四つを『生まれや家柄』ではなく、『精神の成熟度』として読んでみた。つまり、最下層のシュードラは、奴隷ではなく、『欲望のまま生きる姿』を示したもの。すると次のヴァイシャは、商人という職業ではなく、『物質的な成功を追い求める姿』に見えてくる。その欲が満たされると、次第に他人の役にたつことを求める姿、クシャトリア(役人)となる。そうして魂を磨いた先には、公私の境界がなくなり、世のために尽くすバラモン(聖者)と成る。

もしも、聖典に描かれていた物語の真意が、こうしたものであると仮定するならば、カーストが、『段階である』ことにも深い意味が出てくる。つまり、自らの欲望に振り回されている第一段階で、世のため人のためと語っても、どこかに無理が生じる。「道徳なき経済は悪であり、経済なき道徳は寝言だ」という言葉があるように、己の問題を解消できていない者が、他人の問題を解決することはできない。その貢献は、自己犠牲になってしまいかねないからだ。

この成長の旅が、生涯をかけて目指すものであるなら、さらに別の教訓を与えてくれる。人生を四つの段階、つまり①少年期(春)、②青年期(夏)、③壮年期(秋)、④老年期(冬)と分けるとするなら、それぞれの段階での役割も示してくれているように思える。たとえば、少年は『愛されること』を。青年は『成功を求めること』を。壮年は『他人に与えること』を。そして老年は『世に尽くすこと』を、それぞれ役割として求められているのではないだろうか。もちろんこれは、私の個人的な解釈だが、不思議と私にはしっくりくるのだ。

 

格言は象徴として現れる

長い期間、語り継がれてきた思想ほど、時代によってさまざまな解釈が重ねられていく。制度や慣習、時代背景や政治と結びつき、最初に語られた言葉と、後世に受け取られた意味とが、同じものなのか分からなくなることもある。ダヴィンチが絵画の中に暗号を隠したように、重要な格言ほど、象徴の姿をしているのかもしれない。

たとえば、イエス・キリストは、「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」という言葉を残した。賢さの象徴として、蛇を選んだことは、百歩譲って受け入れたとしても、なぜ素直さの象徴が鳩なのだろうか。どう考えても、犬や羊の方が素直そうだし、鳩はどちらかといえば、間が抜けている印象ではないだろうか。しかし、キリストが『鳩』と指名をする以上、そこには、犬でも羊でもなく、鳩でなければならない深い理由があるのだろう。

だから私は、神話や古典を読むとき、表面的な意味をなぞるのではなく、「なぜこの言葉が選ばれたのだろう」と問い直すようにしている。なぜ三種の神器に、剣と鏡と玉が選ばれたのだろうか。なぜ、鬼退治への従者として、大した戦力になりそうもない雉を連れて行ったのだろうか、と。