神社における祈り方
あなたが、神社で手を合わせるとき、一体何を考えているだろうか。合格の祈願や、家族の健康を願っているかもしれない。あるいは、神様へ敬意や感謝を祈っているかもしれない。さすがに、三つまで願いを叶えてもらおうという厚かましい人は少ないだろうが、特に何も考えていないという人は多いのではないだろうか。
なぜ神道では、祈り文句を用意してくれていないのだろう。キリスト教には祈りの言葉や讃美歌がある。マントラやお経を唱える宗教もある。イスラム教にいたっては懇切丁寧に、身体の動作と唱える言葉まで細かく定められている。これなら、祈り方に迷うこともないだろう。一方の神道は、「どうぞご自由に」という、いわばフリー・スタイルなのだ。一応、二礼二拍手一礼という身体の型はあるものの、肝心の「そのあいだ何を祈るのか」については、何も指定されていない。
そうなると当然、参拝中に何を考えるのかも、人によって多種多様になる。私は一時期、一緒に参拝した人に対して、「あなたは何を考えていたのか」ということを訊いて周ったことがある。見た目の割に思ったより何も考えていない人もいれば、感嘆するほど深い哲学をもって挑んでいるギャルもいた。私は、レシピを参考にさせてもらうみたいに、各人の祈り方の中から気に入ったものをかいつまんで、独自の祈り方に昇華させていった。
時間と空間が交わる点
さまざまな人の祈り方を参考に、私が編み出したやり方はこうなった。目を閉じて、今いる場所を意識し、そこから人工衛星を打ち上げるみたいに、視点を広げていく。神社から町へ、町から陸の姿へ。日本列島を離れて地球の姿が見える。さらに拡大の旅を続けると、太陽系を離れて、天の川銀河へ辿り着く。ラニアケア超銀河団を超えて、無数の銀河がコズミック・ウェブを描く『宇宙そのもの』が見えてくる。限界まで広げたところで、次は視点を反転させる。地球へ戻り、神社に戻り、さらに私の身体の内側に意識を向けていく。皮膚から細胞、細胞から分子、分子から原子へ。さらに小さな素粒子の世界まで潜っていく。こうしてまた私に視点を戻して、空間の旅を終える。
次は時間の旅だ。今この瞬間から、途方もない未来へ意識を飛ばしていく。私の身体がなくなり、知っている人もいなくなり、国や文明さえ姿を変え、いつか太陽も今の姿ではなくなるほどの未来へ旅をする。そして反転し、自分が生まれる前、両親が生まれる前、人類が生まれる前、恐竜がいた時代、地球が生まれる前。星さえなかった宇宙の始まり近くまで遡って、再び今この瞬間へ戻ってくる。
無限にも思える空間と、途方もない時間。そのどちらにも、私は今この一点にしか存在していない。そう考えると、ここにいるというただそれだけのことが、奇跡のように思えてくる。私にとって、神社はお願いをする場所ではなく、祈る場所である。願うという言葉が、何かを『お願いすること』であるのに対して、『いのる』という言葉は、神聖なものを意味する『斎(い)』に、宣言することを意味する『宣り(のり)』の組み合わせだと言われている。その節に触れるなら、祈りとは、自分がどう在りたいのかを確かめる行為なのではないだろうか。
祈ることに、神社である必要はない
祈りの型に取り決めがないなら、祈る場所も、神社に限らなくてもいいのではないだろうか。美しい風景を前に、目を閉じる。食事の前に「いただきます」と手を合わせる。一日の終わりに、感謝とともに眠りにつく。自分を超えたものに敬意を払い、その前で自分のあり方を確かめる。それが祈るであるならば、私たちは神社を出たあとも、祈り続けることができるのではないだろうか。
取り決めのない奔放な神道のやり方に、「祝詞のひとつくらい用意しておいてくれよ」と思ったことはある。しかし、木や石や器にも神を見出し、万物に敬意と感謝を向けることができる。そんな感性が宿る国に生まれたことを、私は誇りに思う。