地球儀|リプルーグル
あなたの家には、地球儀があるだろうか。あるいは、これまでの人生のなかで一度でも、進んで購入したことはあるだろうか。私は招かれた家に地球儀が置いてあるのをみると、その人物に対して、自然な好意をいだく。日ごろからそれを回し、ピレネー山脈が擦り切れている跡までみられるなら、私の経験上、その人物は一旦信用して構わない。これは、『つま先の尖った靴を履く男は信用できない』という見立てと同じくらいの確度なのだ。
誰もが子どもの頃、一度は手に取ったことのある道具なのに、なぜか所有している人物にはほとんど出会わない。私たちの星を、触りながら眺められるただひとつの道具なのに。知性的で見た目も美しく、ただそこにあるだけで、空間に教養まで漂わせてくれる。生花より長持ちし、絵画より安く、リクガメのように餌をやる必要もない。それなのに、「次の日曜に地球儀を買いに行きませんか」というお誘いは、生まれてこの方受けたことがない。
私は、地球儀ほど、『大人になってから面白くなる道具』はないと思っている。子どものころは、回すことが目的だった球体も、覚えた国名が増え、訪れた土地があり、知識が積もるほど、そこから読み取れるものが増えていく。もし家のどこかに眠っているなら、久しぶりに引っ張り出して、手のひらで回してみてほしい。きっと、あの頃には見えなかった世界が見えてくるから。
定石にして王道
私が使っているのは、米国リプルーグル社のものだ。およそ100年間、実直な鍛治職人のように、地球儀だけを造り続けてきた老舗である。ウォルナット調の土台に、真鍮の子午環、大航海時代の海図を思わせる色彩が美しい。リプルーグルの地球儀は、比較的手に求めやすいものから、大統領御用達モデルまで揃っているので、勢いに任せて発注しないよう気を付けていただきたい。なお私の友人は、奥様が産後入院中に33万円のフィンレイ型を衝動買いし、離婚寸前までいった。
東から西へ指を滑らせていくと、思いがけないものに出会う。あなたは知っているだろうか。中国よりもずっと大きな『氷の大地』があることを。この星には、ほとんど『海しか見えない画角』があることを。そして私たちが暮らしている地殻が、球体全体から見れば林檎の薄皮ほどしかないことを。これは、どこか遠い世界の話ではない。私たちが暮らす星の話だ。
地球儀を持つと、これまで見ていた『紙面の世界地図』が、本当の姿ではなく、単なる二次元への投影なのだと理解するようになる。紙面を眺めているだけでは解らなかった、飛行機や船の動きも想像できるようになる。なぜ香港やドバイが、空路の要所になりえたのか。太陽はどのように地表を照らし、季節はどう移ろうのか。その仕組みまで、浮かび上がってくる。地球儀は、四角く凝り固まった私たちの頭をまるくし、集めた点の知識を、有機的なネットワークとして結んでくれるのかもしれない。
答えを教えてくれない道具
地球儀を眺めながら、私は不思議に思う。スマートフォンには、この球体とは比べものにならないほど多くの情報が入っている。最寄りの蕎麦屋から妻への謝り方まで、聞けばなんでも答えてくれる。それなのに、地球儀を手にして初めて解ったことがいくつもある。便利になることと、よく解るようになることは、どうやら同じではないらしい。
同じような道具は、かつて暮らしの中にいくつもあった。フィルム・カメラに触れれば、光が写真になる仕組みが見えてくる。紙の地図とコンパスを持てば、距離と方角を意識するようになる。顕微鏡を覗けば、一枚の葉の奥にある世界まで想像するようになる。どれも答えを教えてくれる道具ではなく、自分で世界を読み解くための道具だった。
デジタル機器を使うことで、私たちは多くのアナログを手放してきた。しかし役目を終えたように見える道具のなかには、便利さと引き換えに失ったものを、もう一度見せてくれるものがある。なくても困らない。けれど、あることで世界の見え方が変わる。そんな道具をひとつ暮らしに加えてみるのも、豊かさなのではないだろうか。