スマホを捨てて二年、得たもの失ったもの
今から二年前の春に、私はスマートフォンを手放した。
それは計画的というより、衝動的だった。
沈む夕陽に見とれているうちに、気づいたときには海に放り投げていた。
初めて携帯電話を手にしたのは、高校一年のときだった。
同級生がこぞって持ち出したので、親に頼んで買ってもらい、
それ以降の十九年間、携帯電話は必需品であり、肌身から離したことはなかった。
それでもその日、美しい夕陽の海岸線を車で走っていると、
手元から瑣末な情報を伝えてくる端末を握りしめていることが、
なんだか馬鹿馬鹿しく感じてしまったのだ。
私は車を停め、お祈りとともに海に投げ捨てた。
「禁断の果実よ、深い海に眠りたまえ」
冷静になれば、これは立派な不法投棄であり、恥ずべきことをしてしまった。
それでもこの日を境に、私は十九年ぶりに《携帯電話のない暮らし》を始めた。
きっと困ったことになるぞ
周りからは、そのような不吉な予言を受けた。信頼する友人からも、「現代社会でスマホを持たないというのは、竹刀を使わずに剣道をするようなものです」と忠告を受けた。
しかし、人類の歴史を振り返れば、ホモ・サピエンスは、さまざまな環境の変化に適応して生き延びてきたのだ。無いなら無いでなんとかなるもので、さほど困ったことは起こらなかった。
連絡をしたいときには、パソコンを開けばことが足りた。電話についても、もともと私に来るのは、納税のお知らせとか、保険の勧誘くらいだったので、かえって穏やかな日が訪れた。要するに、周りは困らせたかもしれないが、私に困ったことは起こらなかった。
不便益という言葉があるように、新しい発見もあった。万能の道具スマートフォンを手放したことで、カメラや財布、時計など、それぞれ独立した道具を使うようになり、私だけのこだわりや愛着が生まれるようになった。
たとえば、私はZISS IKONのフィルム・カメラを愛用しているのだが、無限に写真が撮れるデジタル・カメラと異なり、枚数に限りがあるため、心が動いたときにだけシャッターを切るという行為は、上品で気に入っている。
インターネットも、使いたいときだけ接続し、使い終わったら切るという仕組みになったことで、この世界を生きている感覚を取り戻せているように感じている。
急いで捨てて、ゆっくり後悔
確かに友人が言うように、スマートフォンを持たない現代人は、四次元ポケットを失ったドラえもんと同義である。冷静に考えれば(あるいは考えるまでもなく)、手放すべきものではない。言うまでもなく失うものは、便利さだ。わざわざここで語る必要もないだろう。あなたはすでにその恩恵を知っているのだから。
だからこそ、もしスマホを手放してみたいと思うなら、それは衝動的に行われるべきものだと思う。「写真はどうしよう」「電子マネーの残高は」「ゲームのデータは」なんてことを挙げ出したら、こちら側の世界に来ることは、まずできない。
かつて、セーレン・キェルケゴールが、「人生は後ろ向きにしか理解できない。しかし、前向きにしか生きられない」という言葉を残したように、「急いで手放し、ゆっくり後悔」これが基本ルールだ。
スマホを捨てた日、私は少し値の張るワインを買い、独りで祝杯をあげた。仮想現実マトリックスの世界から解き放たれた主人公のように、常時接続されたインターネットの世界から初めてログアウトしたように感じた。
現実の世界の夜は、とても静かだった。
蝋燭の灯と本があれば、それだけで幸福になれた。
感謝とともに眠り、希望とともに目覚められるようになった。
追伸:秘密のレシピ

この文章では書ききれなかったことがあります。
旅の途中で見つけた野草のこと。古い道具のこと。
本を読みながら考えたこと。
そんな小さな覚え書きを、
「秘密のレシピ」として静かに綴っています。
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