空腹という名の贈りもの
十数年前のある日を境に、私は一日三回食事をすることを辞めた。代わりに、その日の気分で一日二食、あるいは一食のどちらかを採用するようになった。空腹を感じてもすぐには食べない。数時間、自分が空腹であることを感じながら過ごし、ようやく食事の準備をはじめるのだ。
かつて、一日三食だった頃の私は、空腹というものを、まるで怪我や病気のように「悪いもの」だと捉えていた。空腹を感じたら、それは一刻も早く満たされるべきである、と。身体もまた、時計のアラームのように、朝昼夜になるたび空腹を知らせてきた。重力の存在を疑うことがないように、三食食べることに疑問を覚えたことはなかった。
世界の見え方が変わったのは、断食の体験がキッカケだった。それまでの人生において、私は空腹を感じたことは何度もあった。けれど、「飢え」を経験したことは一度もなかった。丸一日、何も口にしなかったことは、記憶する限り一度もなかった。
しかし、初めて飢えを経験したことで、世界の見え方が一変したのだ。それまで、悪いものだと思っていた空腹は、私にとって全く違う意味をもつようになった。なぜ、そのように感じたのだろうか。
動物は、満腹のときに休み、空腹になって働く
断食中の私は、肺炎をこじらせたヌーのようにもがき苦しみながら、サバンナの厳しい大地のことを考えていた。野生の動物は、人間のように朝・昼・晩と決まった時間に食事をすることはできない。獲物が見つかる日もあれば、何日も何も食べられない日もある。
運よく食事にありつけたとき、彼らはお腹を満たし、そのあとはカロリーを節約するため静かに休む。そして再び身体が空腹を知らせると、次の獲物を探すために動き始める。空腹とは、休む時間ではなく、活動を始める合図なのだ。
もちろん、人間と野生動物は同じではない。けれど私は、その姿にどこか本来の生き物としての姿を見たような気がした。それ以来、空腹を「創造の時間」と考えるようになった。お腹が空いているとき、不思議と頭が冴え、読書や執筆にも集中しやすい。そして、そのあとにいただく食事は、思わず口笛を吹きたくなるほど美味しく感じられる。
欲をすぐ満たせる時代だからこそ、すぐに満たさない。私にとって空腹は、すぐ満たすべき苦痛ではなく、身体から届く便りになった。
欲をすぐ満たすことが、最上の幸福だとは限らない
もちろん、一日に何食食べるのか、どれだけ食べるのかに正解はない。私にように読書や執筆をしている人間と、身体を酷使するアスリートとでは、必要な栄養も、消費するカロリーもまったく異なる。一日二食が合う人もいれば、五食の方が調子の良い人もいるだろう。
また、「食べること」そのものに人生最大の喜びを感じる人がいてもいい。お腹いっぱい食べることが幸せなら、それもまた豊かな生き方のひとつだ。異なる価値観を認め合えるのは、人間社会の美徳だろう。
ただ、私自身は、食べる回数を減らしたことで、空腹を敵ではなく味方として受け入れられるようになった。食事は以前より美味しくなり、ひと粒のお米にも自然と感謝が湧くようになった。そして何より、「欲を感じたらすぐ満たす」という習慣から、少し自由になれた気がしている。なぜなら以前の私は、パブロフの犬のように餌を求めていたからだ。
欲をすぐ満たすことは、豊かさかもしれない。けれど「飢えない」時代に生きているからこそ、ときには空腹を感じながら過ごすことも、また別の豊かさなのではないだろうか。あなたにとって空腹は、解決すべき苦痛だろうか。あるいは、身体から届く贈りものだろうか。