オイルランプ|Karlskrona
あなたは最近、いつ炎を眺めただろうか。キャンプで焚き火を囲んだ。泊まった宿に暖炉があった。あるいは、不用意な発言で炎上し、鎮火するまでを見届けた。炎とは不思議なもので、ただ揺れているだけなのに、なぜかいつまでも見てしまう。波の音や風に揺れる木々と同じように、筋書きも物語の進展も起こらないのに、飽きが来ないのだ。
しかしいつの間にか、暮らしの中から炎は姿を消した。電子メールが手紙を書く機会を奪ったように、電気とガスの登場によって、炎を目にすることは極端に減ったのだ。洞窟の壁に絵を描くときも、大海原を船で渡るときも、夜更けに恋文をしたためるときも、その傍らには炎があった。人類はずいぶん長いあいだ、炎の揺らぎを眺めながら暮らしてきたことになる。それが今では、ボタンひとつで灯りがつき、部屋が暖まる。あれほど中心にあった炎が、気づけば、なくても困らないものになっていた。
それでも我々は、炎を求めている。高級ダイニングではテーブルに蝋燭を灯し、冬の夜には暖炉を囲んで酒を飲み、夏の終わりには水面を流れる灯籠を眺める。わざわざ炎のある場所へ出かけているのだ。それはおそらく、炎には、照らす、暖める、煮炊きをするだけでなく、『眺める』という役割もあるからではないだろうか。それなら、美しい炎を眺めるための道具を、暮らしにひとつ置いてみるのもいいかもしれない。
鑑賞するための炎
私が迎えた炎は、南スウェーデンのカールスクローナ社が造るオイル・ランプだ。1884年創業の、歴史あるランプメーカーである。私が使っているのは『コホルメン』という小さな卓上型で、真鍮の本体にガラスの火屋という、クラシックな佇まいをしている。燃料を注ぎ、マッチで布芯に火を灯す。初めて手にしたとき、そのフォルムのあまりの美しさに、思わず口笛を吹いてしまった。
オイル・ランプは、スイッチひとつで動く道具ではない。ダイヤルを回して芯を出せば、炎は大きく揺らぎ、戻せばぼんやりと灯る。夜が深くなるにつれて、ふさわしい位置にダイヤルを調整する。燃料が減れば継ぎ足し、煤でガラスが曇れば磨き、古くなった芯は切り揃える。ベルルッティの革靴を磨くように、手をかけながら、炎を育てていくのだ。
22:00を過ぎると、私は照明を落とし、オイル・ランプの炎を灯す。音楽もかけない。本も開かない。ウイスキーをひとつ用意して、ただ炎を眺める。今日書いた文章を思い返したり、十年後はどこで暮らしているだろうと想像したり、ときには死んだあとの世界について考えてみたりする。炎の前では、退屈することさえ忘れてしまう。何かをして過ごすのではなく、何もしない時間そのものを、ピートの余韻とともに味わっている。
役にも立たない、美しい炎
私たちは、何もしないことに耐えられなくなったのかもしれない。海岸線に沈む夕陽を見ながら、友人へ返信をする。星空を見上げながら、星座の検索をはじめる。エンドロールを合図に席を立つ。ほんのわずかな余韻にも、何かを詰め込みたくなるのだ。
もう少し、途中の時間を楽しんでもいいのではないだろうか。湯が沸くまで、その音に耳を澄ます。茶葉が開く様子を眺める。ウイスキーの氷が溶けていくのに付き合う。目的に辿り着くまでの時間を、無駄だと急ぐ必要はない。寄り道もまた旅の醍醐味なのだから。
だから私は今夜もオイル・ランプを灯す。マッチを擦り、芯を整え、ゆらぐ炎を眺める。便利ではないからこそ、その途中に過ごす時間まで楽しめるのだ。何の役にも立たない、美しい炎を、今夜もただ眺めていたい。