スマホの写真を100枚にしてみた
スマートフォンを手に取り、写真のフォルダを開いてほしい。そこには何枚の写真があるだろうか。数百枚、数千枚、もしかすると、数万枚の写真が眠っているかもしれない。よほどのことがない限り、写真を消すことはないだろうから、フォルダの枚数は、今後も増え続けることになるだろう。
しかしここで立ち止まって欲しい。あなたは、その瞬間を忘れないためにシャッターを切ったはずだ。今、無数の写真のなかから、目当ての一枚を探すことは、広大な砂漠から落とした指輪を探すようなものではないだろうか。
ステーキも食べ放題では、だんだんと味が判らなくなるように、写真も撮り放題・保存し放題では、一枚への思い入れは薄れていくだろう。見返そうという気持ちにもなりにくいかもしれない。
もしあなたが「確かにそうかもしれない」と共感していただけるなら、ひとつ提案がある。スマホに保管する写真の枚数を100枚にしてみてはいかがだろうか。写真のフォルダを、あなたの個展会場にするのだ。「何度も見返したいと思える写真」あるいは、「思わず人に見せたくなる写真」だけに絞り、新たに一枚を追加したなら、代わりにひとつの写真を削除する。
私は五年前にそれをやってみた。二千枚の写真に対して、厳しい審査をおこない、目に留まり、見逃すことができない写真だけを残した。ひとつのハードディスクを購入し、選考から落選した写真たちはそちらに疎開させた。こうしてフォト・フォルダは、私だけの小さな美術館になった。アルバムを開くたび、そこには何度でも会いたい瞬間だけが並んでいた。
撮り方が変わる
100枚の上限を設けたことは、撮り方にも大きく影響を与えた。それまでの私は、なんでもかんでも、写真を撮る癖があった。ワインのエチケットをはじめ、上手に焼けたスズキの奉書焼き、フラペチーノの新作に至るまで、まるで食いしん坊のリスが、目につく木の実を溜め込むように、写真を撮り続けた。
しかし上限が設けられてからは、そう簡単に撮ることはなくなった。ベスト100に入り込める状況は、なかなか訪れるものではないからだ。フラペチーノの新作くらいでは、一次選考も通過はできない。だから、「この瞬間は撮らざるを得ない」と思えるときにだけ、シャッターを切るようになった。私は自分の目で観て、記憶に納めるようになった。
三年ほど経つと、美味しい食事に行っても、大自然の風景を前にしても、もう写真を撮りたいと思わなくなった。そういうものは、空気付きで感じるものであり、記憶に焼き付けたいという想いが先にくるからだ。むしろ視覚的に派手さはないが、心が動いた瞬間にシャッターを押すようになった。無限だと思っていた写真が、限りあるものになったことによって、写真の価値が大きく変化したのだ。
限りがあるから愛おしい
桜は、散るからこそ美しい。人との時間も、永遠ではないからこそ愛おしい。それと同じように写真もまた、無限に残せるより、限りがあるほうが一枚一枚に想いが宿るのではないだろうか。
暮らしが便利になり、さまざまなものが制限なく供給されるようになった。写真や動画や音楽は、無限に持ち歩けるようになった。電気やガスや水の残量を気にする人も、ほとんどいないだろう。だからこそ、ときには自ら限りを設けることも大切なのではないかと思う。
百枚しか選べないから、一枚を大切にできる。
一冊しか読めないから、その一冊を深く読める。
限りある人生だからこそ、今日という一日が輝く。
文明が与えてくれた豊かさに感謝しながら、ときには自ら限りを設けてみる。そうすれば、一枚の写真も、一冊の本も、そして今日という一日も、今より少しだけ愛おしく感じられるかもしれない。