いつから塩は悪者になったのだろう
あなたは、塩気の強い食べ物がお好きだろうか。私は甘いものより酒の肴を求めるので、塩辛いものに目がない。鯖のへしこにカラスミ、ほやの塩辛も大好物だ。ところが世の中には、あえて塩を減らした商品がたくさんあることに気づく。スーパーを歩いてみると、『塩分控えめ』や『減塩仕立て』、『塩抜き』というものまであった。『塩分65%カットの塩』を見たときには、さすがに困惑してしまった。『攻撃性を減らしたボクサー』や『面白さを控えたコメディアン』が必要とされないように、塩分を抜かれた塩を、いったい誰が求めるんだろう、と。
ところで塩は、いつから悪者として扱われるようになったのだろう。人類史において塩は、たいへん貴重なものであり、むしろ奪い合っていたはずだ。だからこそ、Salary(給料)の語源も、Salt(塩)に由来している。塩抜きが必要とされる現場なんて、旧ソビエトの拷問部屋くらいしか思い浮かばない。それでも現代では、塩は健康を害するもののひとつとして捉えられており、制限をかけなければならないようだ。
塩は、本当に身体によくないものなのだろうか。誤解されているだけ、ということはないだろうか。あるいは時代が移ろうなかで、昔の姿から変わってしまった可能性はないだろうか。コカ・コーラに、コカの葉やコーラの実が使われなくなったように。
塩をめぐる人類の戦い
生命は海から生まれてきた。汗や涙がしょっぱいのは、私たちの身体が、さまざまな塩が溶け込んだ体液で満たされているからだ。塩抜きにされた敵軍に「塩を送る」ことが美談だとされているように、塩がなければ生きていけない。遠い昔、海から陸へ上がった私たちは、身体の中に小さな海を残しているのかもしれない。
私たちの味覚もまた、塩を「美味しい」と感じるようで、人類は塩の虜になってきたらしい。フレンチ・フライやポテト・チップスを嫌う人は、この世界に存在していないし、サラダもソースもソーセージも、語源を辿れば、塩(Sal)にたどりつく。イタリアに至っては、『塩戦争』と呼ばれる、冗談みたいな争いを二度も起こしている。
ところが現代では、事情が反転した。塩を量産できる技術を得たことで、食べ過ぎるようになった。かつて「もっと欲しい」と願っていたものが、今では「どう減らすのか」に変わってしまったのだ。わずか100年前、ガンディーがインド独立のために、海水を求めて『塩の行進』を行ったが、今の私たちはナメクジにかけて遊ぶくらい、塩が余っている。塩が悪者になったのではなく、塩が貴重品ではなくなったのだ。
多すぎるという贅沢な悩み
私たちは、『不足より過剰であること』に悩む特殊な時代に生きている。食べ物が足りない、水が足りない、道具が足りない。それらを満たそうとした結果、欲望を追い越して、過剰であることの弊害が現れた。脂質を摂り過ぎて肥満となり、糖質を摂り過ぎて糖尿病となり、塩を摂り過ぎて高血圧となった。用法用量を守らなければ、薬は毒に変わるのだ。
「歩かなくて済むように」と車を作ったのに、その車で『歩くため』にジムへいく。塩を求めて戦争までしたのに、今ではコストをかけて『減塩された塩』を買っている。情報も道具も娯楽も。本当に足りないものなんて、実はもうほとんど残っていないのではないだろうか。今の時代の豊かさは、より多くを求めることではなく、必要なだけを知ることなのかもしれない。