学校って何のために行くの?
ふいに子どもから尋ねられた私は、「遊ぶためじゃないの」と答えた。しかしその回答は、母親が期待した答えではなかったようで、冷たい目線を送られたのち、離れた場所でお叱りを受けた。適当なことをいうんじゃない、と。
ちょうど読んでいた本のなかに、「Schoolの語源は、余暇である」と書かれていたので、私は通行許可証を提示するように、その一節を引用したが、「都合がいいときにだけ、英語を出されても困る」と反感を買ってしまった。私はどう答えれば良かったのだろうか。
たしかに、日本国民の三大義務には、「教育を受けさせる義務」があるため、学校というものが、教育を受けさせる場所としての機能があることは理解している。私だってちゃんと学校には通ったし、成績も4を修めた。だから勉強することを否定したいわけではない。
ただ、ひとつ引っかかることがある。明治時代、西洋を手本として整えられた現在の学校(School)は、最初から『勉強する場所』を目的としていたのだろうか。日本語にも、「ハンドルの遊び」という言葉があるように、遊びとは、決して無駄な時間ではない。動き出すために必要な余白のことだ。もしスクールという言葉にも、それと似た意味が込められていたとしたら。少し見え方が変わらないだろうか。
スクールに込められた願い
Schoolという英語の起源は、ラテン語で『余暇』を意味するスコレー|scholē。あるいは『立ち止まること』を指すスケイン|skhein にあるとされている。
仕事から離れた時間。心にゆとりがある状態。そして、そこから生まれる創造的な営み。友人と恋の話をしたり、音楽を奏でてみたり、星座を眺めたり。古代ギリシア人は、そのような人間らしい余暇にこそ、創造性が発揮できることを知っていたのだ。もちろん忙しい生活があるので、みんなが余暇を取れていたわけではないだろう。しかし一部の人たちは、意図的に、生産性を追わない時間『スコレー』を取るようにしていたのだ。
そのような人たちが集まり、話をするうちに、次第にそこは学びの場となった。あるときには「どうして怖い話を聞きたくなるのか」と語り合う。また別のあるときには、旬のいちじくを使った料理をする。夜になれば星を眺め、「あの三つの星を結ぶと、狩人に見えないか」と冗談をいう。そうした何気ない対話から、哲学が生まれ、天文学が生まれ、芸術が生まれた。
発見は、生産性を求めない『余暇』だからこそ生まれる。学びたいことを学び、考えたいことを考え、悩みたいことに悩めるから、気づきがある。月末のノルマに追われる商人が、空を見上げても、そこに一角獣やケンタウロスは見えない。暇を持てあまし、ひととおりの動物を試したけれど、それでも納得いかない人物だけが、一角獣を創造するのだ。
遊びから生まれる知恵
もちろん現実的に考えることは大切だ。知育をまなび、論理力を身につければ、解釈能力の基礎となる。偏差値の高い大学へ進めば、相対的に優秀な人材の多い環境に身を置くことになる。高学歴であることが、社会で有利に働く場面も少なくない。
しかし一方で、遊びから生まれる知恵もある。野山を駆け回ったこと。旅に出たこと。絵を描くことに夢中になったこと。音楽を奏でたこと。恋をして恥ずかしい思いをしたこと。友人と夜遅くまで、答えのない話をしたこと。そのような(一見、生産性が見込めない)遊びもまた、人の魅力をつくるものだと私は思う。
もしもまた別の子どもから尋ねられても、やはり私は「遊ぶことじゃないかな」と答えるだろう。生産性を求められない時間だからこそ、それを気にせず遊んだらいいんじゃないかな、と。遊びを知らない合理的な生き方が、理に適っているとは思えないから。
関連記事はありません
読者の声
あなたが最初のひとりです。