コスパとピラミッド
22歳の夏、私は不思議な体験をした。夏休みを使って、エジプトにひと月滞在したのだが、どういうわけか、ピラミッドを訪れずに帰ってきたのだ。その旅は、私が時給900円のアルバイトで貯めたなけなしの全財産を使った渡航であり、「ディズニーランドでミッキーに会わずに帰ってきた事例」とはわけが違う。
もちろん、ギザの町は訪れた。有名なピザハット・スフィンクス・ピラミッド店で、アメリカン・スタイルのピザを頬張りながら、ピラミッドとスフィンクスの夢の共演を眺めていた。しかし、何か見えざる手の力が働いたのか、私はピラミッドに立ち寄ろうという気持ちになれず、そのままカイロへの帰路につくことにした。おそらく歴史上で、ギザの町に寄りながら、ピラミッドを訪れなかった人物は、日本人で私だけなのではないかと思う。
当時の私は合理主義者で、いわゆる「コスト・パフォーマンス」を追求していた。効果が見込めないところには、資源を使わないことを徹底していた。だからこそ、その対極にあるピラミッドの存在を受け止めきれなかったのかもしれない。
ピラミッドは、何を目的にした施設なのだろうか。墓にしては大袈裟すぎるし、記念碑にしては手をかけすぎている。確かなことは、コストパフォーマンスという発想から最も遠い場所にある建築物であることだけは、間違いない。
コスパが求められない世界
振り返ればエジプトには、コストパフォーマンスとは程遠い建造物が無数にあった。広大すぎる王家の谷、精巧すぎるアブシンベル神殿、巨大すぎるメムノンの巨像。そのいずれもが、得られる成果に対して、コストと時間をかけすぎていた。
しかし思えば、それはエジプトだけではない。インドにはエローラ石窟があり、カンボジアにはアンコールワットがある。西洋のアンティークジュエリーしかり、中華の荘厳な王都しかり、日本朝廷への献上品しかり。過去に作られた遺跡や芸術品は、いずれも経済のパフォーマンスを目的にはしていない。どれだけ予算と時間をかけてもいいから、「美で心を震わせること」を目的にしていたのではないかと思う。
そして、そのコスパを無視した「究極の美」は、数百年・数千年を超えてもなお、私たちに感動を届けてくれる。少しでもパフォーマンスを意識したら、大仏なんて誰も作らないし、ましてやピラミッドなど建てるはずがない。あんなのは取締役会の議題にあがる遥か前に、却下されるに決まっているのだ。
タイム・パフォーマンスという流行
ここ数年、コスパから派生した「タイパ」という言葉をよく耳にする。タイム・パフォーマンス(時間対効果)のことで、「この映画を観るのはタイパが良い」や、「この本はタイパが悪い」という使い方をするそうだ。限られた時間を、できるだけ有効に使うための知恵であり、現代を生きるうえでは大切な感覚なのだろう。
しかしタイパの発想からは、生まれないものがある。
利益ではなく、美しさを。
効率ではなく、完成度を。
短い成果ではなく、千年後に残る価値を。
そういう視点を育むなら、やはり過去に目を向けるべきではないかと思う。売上でも生産性でもなく、美だけを追求した営み。国家や王族、そして信仰に支えられ、「採算を超えた美」がそこにはあった。幸いにも私たちは、そのどれにも触れられる時代を生きているのだから。
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