2026-07-20

辛いなら、すぐに諦めた方が良い

辛いことから逃げてはいけない。諦めてはいけない。そんな言葉を、私たちは何度も耳にしてきた。しかし、もし「あきらめる」という言葉が、本来はまったく違う意味だったとしたらどうだろうか。

働く(はたらく)という言葉の由来が、「側を楽にすること(そばにいる人を救うこと)」であったり、自由という言葉のそれが、「自らを由とすること(出来事の因果を自らに紐づける態度)」であるように、言葉の生まれをたどると、そこに込められた願いが見えてくる。

実は、江戸時代には「あきらめ」を美しい生き方(=粋)と考える文化があった。私たちがその言葉を聞くと、「我慢」や「失敗」といった消極的な意味合いを感じるかもしれない。「諦めなさい」と言われると、嫌な気持ちになるかもしれない。しかし、その古い意味をたどると、私たちにひとつの生き方を教えてくれる。

「あきらめ」とは、明らかに眺めること。執着を手放して、物事のあるべき姿を見ようとすること。それは、執着を力づくで断ち切るのではなく、俯瞰して眺めた結果として、自然とほどけていく状態を指している。

諦められる人は、美しい。「好き過ぎてつらい気持ち」を諦められる人は、一方的な執着を手放し、相手の目線や気持ちを尊重できる。「勉強してくれない子どもへの苛立ち」を諦められる人は、自分の期待を手放し、その子の希望に向き合ってあげられる。

 

粋における三つの美学

江戸時代、人々が憧れた生き方のひとつに、粋(いき)があった。粋を研究した書籍を読み進めるなかで、私なりにたどり着いた解釈がある。粋とは、人を惹きつける品があり(媚態)、自分の信念を静かに貫き(意気地)、結果には執着しない(諦め)ことだ。逆に品がなく、利ばかりを優先し、執着心がある人物は、「野暮(やぼ)」と呼ばれた。

粋な男女の色恋は、惹かれ合う余韻を大切にするもの。気持ちは全部を曝け出さないし、直接的すぎる物言いもしない。そのような余裕や余韻が大切だと考えられていた。かつて夏目漱石が、「I Love You」を「我君を愛す」と直訳した教え子に対して、「月が綺麗ですね、くらいにしておきなさい」と助言した逸話がある。真偽は定かではないが、粋な漱石先生ならやりかねないだろう。

また粋な大人は、決めた約束を守る。気前がよく、困った人には迷わず手を差し伸べる。それでいて、恩着せがましくなくさっぱりとしている。そして去るものを追わず、負けても騙されても恨まない。虎の意をかる狐、あるいはスネ夫の対極にある生き方だと言えば、理解しやすいだろう。

こうした価値観は、人々の日々の暮らしにも表れていた。江戸の街は、当時世界でもっとも人口が多い都市だった。それでいて清潔感があり、人々は幸福そうで、西洋から訪れた知識人たちは、その様子に感嘆したことが、多くの文献に残されている。粋とは、執着を増やす生き方ではなく、執着をほどく生き方だった。だからこそ、その美学は三百年以上経った今も、静かに私たちへ語りかけてくるのではないだろうか。

 

あきらめ(明らかに眺め)てみよう

辛いことがあるなら、一度あきらめてみよう。もちろん、これは「夢を捨てろ」という意味ではなく、明らかに眺めることだ。

好きすぎて苦しい人がいる。失敗できない上司からの期待がある。捨てられない夢がある。そうした感情があるなら、一度、鳥の目で眺めてみよう。そして自分に問いかけてみる。これは本当に自分が望んでいることなのか。あるいは、そう思わされているだけなのか。執着なのか、それとも信念なのか。

明らかに眺めたとき、執着は消える。しかし、信念は消えずに残る。だから、辛いなら、一度諦めてみよう。それでも残るものだけに、命を燃やせばいいのだから。

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