なさけない人と、情けある人
「なさけない人」と聞いて、どんな人物を思い浮かべるだろうか。自信がなくて落ち込みやすい人。意志が弱くてすぐ諦める人。失敗をいつまでも引きずる人。ドラえもんのメンバーで選べと言われたなら、迷わず「のび太」を指名するのではないだろうか。
しかし「なさけない = 情けが無い」という言葉は、もともとそのような意味では使われていない。その本意を知れば、むしろ、のび太こそが「情けある」人物であり、スネ夫やジャイアンの側が、情け容赦のない人物であることが解るだろう。
言葉には、命名した人々の願いが込められていると、私は感じている。「もったいない」と嘆くとき、そこには、勿体(あるべき姿)があって欲しいという願いがある。「みっともない」や「ふがいない」にも、同じような願いが込められているのではないだろうか。
「情け」という言葉を知れば、この言葉を生み出した人たちが、「どんな人で在ってほしいのか」という願いが見えてくる。仕事ができないことや、恋が実らないことが、「情けない」ことではなかったのかもしれない。少なくとも、「なさけない」という言葉が指していたものは、仕事の能力や成果ではなかった。では、日本人が大切にしてきた「情け」とは、一体どのようなものだったのだろう。
情けとは、世界に心が動くこと
「旅は道連れ世は情け」という言葉があるように、情けという言葉を聞くと、「人情」や「思いやり」を思い浮かべるのではないだろうか。もちろんその意味合いはあるが、元々は、さらに広義で「心が動く感受性」を指していた。男女の情愛や、風情や趣を感じる心。もののあわれを知り、侘び寂びに美しさを感じる瞬間など、何かの折に心が動くことを「なさけ」と呼んだのだ。
つまり、「情けない」とは、世界に対する感受性を失ってしまった状態。他人にも、自然にも、芸術にも、心が動かなくなってしまった人を、「情けない人」と呼んだのではないだろうか。情けがなくなると、世界の美しさや悲しさに気づけなくなり、感謝や幸福を感じる機会も失われていくのではないだろうか。
情けのある人は、困っている人を見て胸を痛め、他人のために手を差し伸べる。そして、花を愛で、季節を感じ、雨音にさえ感動できる。世界を受け入れ、そのひとつひとつに素直に感応できる。そんな感受性そのものを、日本人は「情け」と呼んだのではないだろうか。
情けある人の世界は、希望と感謝に満ちている。そんな言葉を残したご先祖様たちの願いを受け、私は情けのある人で在りたい。
情けある人で、在るために
能力はもちろん尊い。知識を身につけ、技術を磨き、誰かの役に立てる人は、社会にとって欠かせない存在だ。そのような有能な人を私は心から尊敬する。
しかし一方で、どれほど能力が高くても、人の痛みに鈍感なのはいかがだろう。どれほど稼いでいても、余白や余韻を無駄としか思えないのはどうだろう。どれほど立場があっても、機転や気遣いのできないのはどうだろうか。そんな情けのない人物を成功者だと思えるだろうか。
私は、能力を磨きながらも、それ以上に情けを失わない人で在りたい。受けた恩を忘れないこと。気遣いができること。効率や刺激だけを求めるのではなく、間にまで美しさを見出せること。そんな感受性もまた、人の価値を形づくる大切なものなのだから。
あなたは、能力を磨くことと同じくらい、情けを育てることを大切にしているだろうか。
読者の声
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