世界がもし100人の村だったら
2001年に、ある新聞のコラムから生まれた「ひとつの物語」が、チェーン・メールとして大流行した。世界人口63億人を、100人の村としてみなすなら、地球はこういう状況なのだと。
「もし銀行に預金があり、お財布にもお金があり、家のどこかに小銭が転がっているなら、あなたはこの世界でもっとも裕福な上位8%のうちの1人です」
「もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上には屋根があり、寝る場所があるなら、あなたはこの世界の75%の人々より裕福です」
「もしあなたが嫌がらせや逮捕や拷問や死を恐れずに、信仰や信条、良心に従って、なにかをし、ものが言えるなら、そうではない48人より恵まれています」
「もしあなたが空爆や襲撃や地雷による殺戮や、武装集団のレイプや拉致におびえていなければ、そうではない20人より恵まれています」
これらの数字は20年以上前の統計をもとにしており、現在では細かな割合は変わっている。しかし、大きな構図は今もそれほど変わっていない。
ソーシャルメディアを見ると、周りと比べて嫌な気持ちになることがあるかもしれない。会ったことのない絶好調な人に嫉妬したり、起きていない将来の不安に悩んでしまうこともあるかもしれない。
しかし、引いた視点で世界を眺めると、景色はずいぶん変わって見える。地球を100人の村として眺めれば、日本に生まれた私たちは、間違いなく恵まれた側にいる。けれど、本当に驚くのはここからだ。今度は、地球ではなく「時間」を見渡してみよう。
1000億人が夢見た暮らしが、今ここにある。
私たちには、ふたりの親がいる。
その親にも、またふたりの親がいる。
その親にも、さらにふたりの親がいる。
その系譜をたどれば、人類はこれまで約1170億人が生きてきたと推計されている。その多くは、飢えや寒さ、病気や戦争と隣り合わせの時代を生きていた。過去に目を向ければ、現代に生きる私たちは、人類史上、もっとも豊かな暮らしを享受しているのだ。
スーパーへ行けば、かつて帝の宴の席に並んだような、新鮮な海の幸や山の幸を買うことができる。コンビニへ行けば、アントワネット王妃も舌を巻くようなスイーツが並んでいる。少し奮発すれば、かつて王侯貴族しか口にできなかったようなワインを買うこともできる。
衣服も何着だって持つことができるし、灼熱の真夏でも、冷房の効いた部屋で過ごすことができる。プライバシーのない群れで暮らすこともなければ、藁のうえで寒さに凍えながら眠ることもない。飢えを凌ぐために木の皮を食べる必要もないし、リスクを追ってマンモスを狩る必要もない。
私たちは、不幸を探すことが得意になった。得ているものに感謝することより、得ていないものに不満を感じるようになった。でも、人類史という長い時間の中に自分を置いてみると、その景色は、きっと少し違って見えるはずだ。
奇跡に気づくこと
朝、目を覚ましたら、蛇口をひねって冷たい水で顔を洗う。好きな音楽をかけて、朝ごはんの支度をする。夜はお風呂に浸かって身体を休め、ふかふかの布団でぐっすり眠る。休日には、好きな服を着て出かけ、映画を観たり、お酒を飲んで過ごす。
人類が憧れ続けた暮らしが、いま、当たり前になっている。むしろ、当たり前になりすぎて、その奇跡に気づけなくなってしまっている。
もちろん、我々にも悩みや不安や不満もある。けれども、世界を100人で眺めてみる。時間を1000億人で眺めてみる。その二つの視点を持つだけで、今日という一日は、昨日とは少し違って見えてくる。
世界は変わらない。
けれど、世界の見え方は変えられる。
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